これは書きかけです。事実の確認に手間取っています。間違いがあるかもしれません。気づかれた方はご連絡下さい。
1929年 | 8月11日 |
愛媛県温泉郡北条町辻町(のちに北条市、現在は松山市)で誕生。本名は富田祥資(よしすけ)。 父は勝一、母は静乃、二男一女の末っ子。 |
1941年 | 北条小学校(入学時は尋常小学校、卒業時は国民学校)を卒業。 | |
旧制松山中学校(現松山東高校)在学。 | ||
1944年 | 防府の海軍兵学校に入学。 | |
〃 |
いとこの富田源太郎、インパール作戦従軍中、ジャングルの中で泥濘につかって死亡。 (「君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝」122ページ) |
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1945年 | 8月5日 | 妹の春子、兄に会うため愛媛県北条町を出る。6日に広島で被爆死?(本人談「愛媛情熱人」) |
〃 | 8月15日 | 防府の海軍兵学校予科在学中に終戦を迎える。(藤田稔著「愛と青春の追憶」など) |
〃 | 8月23日? |
松山への復員の途上、原爆で廃墟となった広島市で、無数の燐光が燃えているのを見る。 (早坂先生は愛媛新聞1994,8,18号「一日一愛」では8月18日としている。) |
1947年 | 4月 | 旧制松山高校(現愛媛大学)に入学。(追悼展資料) |
1948年 | 10月15日 |
記念祭において理科1組による演劇「理髪師チッタアライン」で主役を演じる。 (藤田稔著「愛と青春の追憶」) |
東京大学医学部に合格したもののそこに進まず、日本大学芸術学部演劇学科に入学。(追悼展資料) |
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1952年 |
東大ポポロ事件(2月20日)に関わって、逃げている最中、銭湯の蛇骨湯(じゃこつゆ)で渥美清と 出会う。渥美とは生涯の親友となる。 |
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1953年 | 日本大学芸術学部演劇学科を卒業。大学院に進んだものの中退(時期は? 週刊テレビ番組Vol.13⑰) | |
〃 | 「少年西遊記」の台本を執筆。これが早坂先生のデビュー作。 | |
1955年 | 日本大学芸術学部演劇学科を卒業。大学院に進んだものの中退(時期は?、週刊テレビ番組 Vol.13⑰) | |
1956年 |
中央婦人新聞社(現・日本女性新聞社)に入社。生け花担当の初代編集長となる。 生け花評論家「富田二郎」というペンネームで、優れた筆力により新聞紙面を躍動させ活躍する。 (追悼展資料) この年、運転免許証を取得(週刊新潮連載「花へんろ風信」1998.12.3) |
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1958年 | 2月20日 | 処女小説「蒼い乳房」を田代真澄の名で出版。 |
1981年 | 2月15日 | 「夢千代日記」のテレビ放映開始。一大ブームを呼び起こす。 |
1983年 | 心筋梗塞を起こし、東京の大学病院に入院。 | |
1990年 | 5月31日 | 授賞式 第9回新田次郎文学賞 「華日記ー昭和生け花戦国史」於 東京会館。(朝日新聞) |
〃 | 10月12日 | 贈呈式 第6回講談社エッセイ賞 「公園通りの猫たち」(講談社) (朝日新聞) |
1992年 |
この頃、父・壺中(俳号)逝去。 (夢の景色) |
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1994年 | 4月28日 | 紫綬褒章(平成六年春) 1994.4.28付発表。 (愛媛新聞) |
1996年 | 3月23日 | 授賞式 第19回日本アカデミー賞 優秀賞 「聞け、わだつみの声」 (朝日新聞) |
〃 | 8月4日 | 親友の渥美清、逝去。 |
1999年 | 11月3日 | 授賞式 愛媛県教育文化賞 於 愛媛県庁。 (愛媛新聞) |
2000年 | 11月3日 | 勲四等旭日賞受賞(秋の叙勲) 2000.11.3付発表(愛媛新聞) |
2006年 | 11月3日 | 授賞式 2006年度愛媛県功労賞 於 愛媛県庁 (愛媛新聞) |
2007年 | 1月9日 | 贈呈式 第55回愛媛新聞賞 於 ホテルJALシティ松山 (愛媛新聞) |
2009年 | 9月19日 | 講演会 演題「石鎚山は瀬戸内海の父」―瀬戸内海は日本列島の母 於 西条市総合文化会館 |
2017年 | 12月16日 | 東京都内の外出先で体調を崩し病院に搬送、腹部大動脈瘤破裂で逝去。享年88歳。 |
2018年 | 2月16日 | 表彰式 松山市栄誉賞 於 松山市北条ふるさと館。 |
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